大野池地蔵尊の話 私が小学校の頃(約70年前) は大野池の北西の端にこの地蔵様が建ってましたが、いつの間にか北東に移動していました。なんでこんな山の中の道もない所にお地蔵さまがあるのやろうと思っていましたが、さほど気も留めずに学校の帰りランドセルおいて遊んだことを覚えています。それから だいぶたって村の長老から聞いた話で 村の村長さんのおじいさんが門の前で日向ぼっこしてると大八車に荷物を乗せた人が通りかかり、この近くに大きな池はないか ? とたずねます。はい 大野池があります、が 山の中で何もない所へ 何しにに行くのですかと聞くとー いやー実は私は浪速の住人で草丈ともうします。すこし前から家で寝ていると枕元に地蔵様が立ちまして おいこれこれ--ワシを南の方の大きな池の畔に建ててくれ--そこで目が覚めて変な夢見たなーとお思ってた。ところが次の日も 次の日もおなじ夢を見る。次の夢の時 理由を聞いてみた、するとーワシはお前の先祖の地蔵じゃお前はもうすぐ災難で死ぬ ! 死にたくなければ南の方の大きな池の畔に地蔵を建てて毎年お参りしなさい。建てないと毎晩枕元に来るぞーということでじぞうさまを大八車に積んで 南の方の大きな池を訪ねてきました。なるほど-と 説明を聞いたじいさんは 納得しそれでは わしが案内しましょう !ーと池の北東端に案内し 浪速からでも拝めるようにと北向きにお地蔵様を建てました。この話を村長さんの家では代々語り継いできたそうです。

なにせ3代か4代前のおじいさんの話やそうです。 その後草竹さんはどうなったか ? 聞かなかったーなー。

私が17-18歳の頃信太山の東端の高尾バス停でバスから降りてきた人がこの近くに大きな池ありませんかと尋ねられてーどこかで聞いた

フレーズやなーと思いましたが、その池の近くにお地蔵さまはありませんかと聞かれ 。あー来た ! ー子供のころから信太山は熟知していたので案内することにしました。が 私は山育ちの田舎者で汚れたふくをいつも着ていましたが この人たちは身なりも整った小学校ぐらいの男の子と女の子を連れた母親らしき3人連れでした。とても山の中を歩く格好ではないのでー道もわるいし山の中で歩きにくいですが大丈夫ですか ? とー是非私たちはそこへ行きたいのです。お願いします。ーとの事でー信太山を真横に5百メートル程山を突き切り阿闍梨池の土手を過ぎもう3百メートル程歩るいて大野池の南西のお地蔵様まで案内して家に帰りました。帰りしなに今来た道より上代村の中をぬけたほうが道がいいと教えておきました。その夕方親父が帰ってきてー今大野池地蔵さんお参りいって来た! 元村長さんの家から電話がありー大野池地蔵さんお参りしてほしいと言う人来てるから一緒に行ってお参りしてほしいーとのこ事でいって来たというのだ。思わずその人の名前なんていうの。と聞いたらー草竹さんゆうてた、来年もお願いします言うてたー。あーやっぱり子供のころ長老から聞いた話ー繋がった。ーしかし親父はこの話し知らなんだらしい。その後私は京都仏教大学に入学し初めて親元を離れて下宿生活ー京都で就職し10年32歳の時親父の緊急入院で自宅に戻り親父の仕事継ぐ。それから3年ほどたった頃元村長さんの家から電話ありーしばらく途絶えてた大野池地蔵尊のお参り6月6日に再開したいとの事て゛遂に私にお参りの番がやって来たか !! 時間を午後2時と約束して、電話を切った。それから30年ほどたった頃突然草竹さんが来なくなった。実はこの大野池地蔵尊の近所の人のお参りも有り、6月6日の2時から法要があると聞いて1人増え2人増えお参りする人10人になり20人・30人だんだん増えて、それぞれ持ち寄ったお供えのお菓子・お饅頭・お茶・ジュウス等で法要の後の茶話会で時間の過ぎるのも忘れてー楽しいひと時お過ごしていました。まー何か来れない理由があったんやわー ! 

又 来年は来てくれるやろー ! と思って、ー1年たち2年たちそれでも毎年法要のお参りは続けてました。がついにコロナがやって来ました。そしてお参りはなくなりました。残念 !!

尚 この話は70歳半ばのまだ記憶の残ってる間に覚えてる事を書き留めただけてす・間違った記憶もあるかもしれませんがあしからず。

 

阿闍梨長賢上人の話 今から約650年ほど前 天王寺のお坊さんで阿闍梨長賢上人というかたがおられた。この長賢上人は土木建築工事が得意で要請が有ればどこへでも出向いて行って完成するまで当地に留まり総監督をして各地に偉業をはせて名前を残した人ですが ! 岸和田の久米田池の堤が大雨で決壊したのを修理に行った帰り道 ちょうど信太山あたりを通りかかりーそう云えばこの信太山の上にある名刹信太寺は今どうなってるのか ? と思いお供と共に山の上に上がって来て目の当たりにしたものは 何とあの七色の寺の七堂伽藍は見る影もなく朽ち果て付近の村は寂れて何ともいいようがない ! ー何とあわれで・嘆かわしい姿ー長賢上人は非常に悲しまれて、何とか元の姿に

復興したいと思い。そしてその姿をいつまでも維持していく方法はないか ?  !  長賢上人はすぐに村人を集めて測量を始めます。

夜に村人に提灯を持たせて信太山のあちこちに立たせて自分は寺の三重塔の上に上りこの塔より高い所に池を作れば村まで水が引けると考えたのです。長賢上人は信太寺を復興・維持するために田んぼを作ろうと考えーそこでとれた米でお寺を復興・維持するーそして村人も豊かになる ! ーそれから村人総出で信太山の一番高い所へ池を作ってーそこから5Kmの灌漑用水路を村まで引き、めでたく山の上に田畑が出来るようになった。そしてその池の名前を阿闍梨池といいます。この阿闍梨池は今まで一度も水が枯れたことがないと云われている。阿闍梨池の南斜面で湧き水が沸いているからで、斜面全体からジワジワと何処というわけではなくあちこちそこらじゅうから一年中きれいな水がしみて出ている。私が子供のころそこに生えている食虫植物(誰かが発見して天然記念物になったやつ )天然記念物になる前やったけど取ってきて夜になったらハエ・カ たべへんかなー ? と観察してたこともあった。水のきれいな所しか生えへんらしい。信太山に降った雨水がしみ込んで何年かたって ここに湧いてくるんやと思うんやけど ? 定かでない !  今でもこの阿闍梨池と用水路は現役で使い続けている。そして今でも町内会の人総出で田植えの前に灌漑用水路の掃除をしている。650年もつづいている。昔は雨が降らずに飢饉がつづいて近隣では水争いで大変な時代があったらしいが !  そおいう時もちまたでー上代はいいなーいつも田んぼが・あおあおしてるーと言ってうらやんだーと聞いている。徳川時代に成って上代の米は美味いと知れたか ! 松平家の飛び地となり毎年江戸までお米を運んだそうです。2月18日に阿闍梨長賢上人がお亡くなりになったと聞いた村人は上代村を救った長賢上人の恩徳に報いるために毎年2月18日にお寺で法要を営んでいる。650年続いています。

松平家奉納年貢米の話 上代村は阿闍梨長賢上人のおかげで、米が採れるようになったが元々お百姓さんしかおらずこの村と米を守るために (武士)が派遣された。私が子供の頃その家の門が長屋門になってて天井にカゴが吊ってあった、長屋には古ぼけた鎧兜・やり・弓・陣笠が置いてあった。昭和30年代のころである。この家は明治になって役目が終わったと思ったか ? 大坂市内へ引っ越した。今は分家が

残っている。私は住職になるまでこの話は知らなかったのでー私の見た長屋門は分家の長屋門である。それから60年以上たって今の当主はーもう大刀しか残ってなくてー和泉市へ寄贈しー博物館に展示されているそうです。

話がそれてますので奉納年貢米に戻します。